人生を表現する活動日誌

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自分に与える週間/幸せと感じる瞬間

与えられることばかりでなく自分に与える週間

6月。笹塚に引っ越しをした。

半年ぶりの引っ越しであり、なかなか急ピッチで動くことにめどくささを抱きつつ、そんな人生も良いななんて思っている。

 

笹塚の家は、面白い。

まず洗濯機が外にあるから、屋根はあるが雨にはガンガン濡れる。

網戸がよく外れるのは、そもそも家が歪んでいるから。

リビングにはエアコンは無いので冬は寒く、夏は暑いのだろう。

 

ちなみに前住んでいたシェアハウスはエアコン完備、キッチンは広く、床暖房があるので冬はめちゃめちゃ暖かい。

風呂トイレは綺麗。

 

そんな便利で快適な家から僕が半年で出たのは、ある種不便さというものを求めていたからなのではないか、と思う。

 

便利で快適な空間というのは、人の感覚を鈍らせるのかもしれない、と僕は引っ越しをして感じるようになった。

 

ダンスを作るとき、僕はまず適当に動いてみる。そうやって手足を動かすことから自分の感覚を目覚めさせたり、研ぎ澄ませる事ができる。

 

だから、不便さの中で手を動かすことというのは自分の感覚を呼び戻す作業のように僕は思えて。

 

 

与えられることに慣れてしまうと、与えることに対しての感覚が鈍る。

人は心臓を動かして生きていて、心臓がこれだけ24時間365日動き、僕らに体を動かし生きるキッカケを与えてくれているだから、その想いには応えた方がいいんじゃないだろうか。

 

だから僕は下北沢から家までの25分という道のりを歩いて帰っている。

別に新宿まで出ればもっと早く帰れるんだけれど、歩くことから得られる感覚というものを僕は感じてみたいと思い、わざと遠い道を選んで帰るのだが、やはり歩くことで自分の感覚が目覚めている気がする。

 

普段感じたことのないようなことや考えなかったことに出逢える瞬間があるから面白い。

 

人間は本来歩く生き物だ。

マンモスを狩っていた頃は、生きるか死ぬかの瀬戸際を彷徨いながら感覚を研ぎ澄まし生きていたんだろう。

 

便利さから離れて、不便だと思うことやめんどくさいと感じることにこそ僕らが本来持っている感覚を喚び起させてくれるのかもしれない。

 

 

幸せと感じる瞬間

「幸せだなぁ」とふと口にする事がある。

 

なぜそう思うのか。

幸せだと感じる感覚とはなんなのだろうか、という話にこの間一緒に住んでいるリクくんとなった。

 

朝1時ごろに腹が減り、飯を買いに行き食べている時にふと出た一言がキッカケだったのだが、これも考えてみるとそういう幸福というものを感じる感覚があったからなんだと思う。

 

ちなみに食べていたのはセブンの納豆巻き。

なんて事ないコンビニのおにぎりだ。

 

幸せというのは、大きな家に住む事だったりお金持ちになる事で得られる感覚では無いと僕は思っている。

 

「幸せ」だと口に出せる感覚を持っている時こそが、心が感じている幸福なんだ。

 

誰でも感じれる事は出来るのだけれど、何か満たされていないところに目を向けたり、与えられる事ばかりで感覚が鈍っていると、それは湧かないような気がする。

 

 

幸せとは、その人の心が「幸せ」だと感じるくらいの余裕がある時、何気ない日常に幸せというものを感じることができる

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では